【夢を託した母!?】2人の娘達に夢を託して逝った浅田真央の母!?
2015/10/08
セラフィム
浅田真央
1990年9月25日生まれ、25歳。愛知県名古屋市出身。ジグソーパズルとレゴ作成が趣味であるらしく、手先が器用である。
2005年のGPファイナル優勝をきっかけに、女子フィギュアスケート人気に火をつけた立役者。2008年、2010年、2014年世界選手権優勝に加えて2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト、2014年ソチオリンピック日本代表(6位)という輝かしい成績を残している。
2005-2006年シーズンのGPシリーズで結果を残していることからトリノオリンピック出場を望む声が上がったものの、年齢制限のルールにより惜しくも出場を逃しているエピソードは有名。
愛犬・エアロとの2ショット
プライベートでは2005年の世界ジュニアで優勝したときからトイ・プードルを飼っていて、テレビ番組でもたびたび共演している。お菓子の名前からとって「エアロ」と名づけた。この繋がりで、ネスレのイメージキャラクターを務めた。ほか、現在でもさまざまなCMに出演する人気者。
笑顔が似合う元気な少女・浅田真央も今年で25歳。だがその笑顔の裏には様々な困難が待っていた。その最たるものが最愛の母の死である。一時は休養・引退まで考えた浅田真央、その原因の一端となっているといってもいい母の死。ではその母はどのような人物だったのだろうか。
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遠征に付き添う母・匡子(きょうこ)さん〔写真右〕
浅田真央とは非常に仲がよかったという母。浅田真央、姉の舞の2人のフィギュアスケーターを育て上げた母とは?
「一卵性親子」と言われたほど、真央を溺愛し、世界一のフィギュアスケート選手に育て上げた。しかし、匡子さん本人が表に出てくることはなかった。その陰には、全身全霊をかけて、2人の娘に愛情を注いできた母親の姿がかいま見える。
浅田真央はオリンピックに出場する日本一といっても二とくだらない選手。姉の舞も美しいスケーティングでファンを魅了した一流のスケーター。そんな娘たちを育てた母といえばメディアが普通放っておかないだろう。だが母は表に出ることなく、娘たちを支えることに注力してきた。
「娘たちには事あるごとに言ってきたの。世の中には、好きなことをやれる子ばかりじゃないと。勉強との両立はもちろん、家庭の事情で自分でお金を稼がなきゃいけない子も、病気やケガで思うように動けない子もいる。だから、スケートができることを当たり前に思っちゃいけないって」
母は常に、浅田真央や舞には好きなことをやらせたいと話していたという。だが同時に母は、好きなことができるのが当たり前ではない、と教育するのも忘れなかったそうだ。
「私自身が、12歳の時に父を亡くし、20歳の時に母を亡くして、姉と2人で苦労したから。その分、娘たちには好きなことをやらせてあげたいという気持ちが強いのかもしれない」
母自身幼いころに父親を、若いうちに母親を亡くした苦労人。だから浅田真央・舞には好きなことをさせてあげたい、という想いが母にはあった。
浅田真央の姉・舞さんと母の一枚
フィギュアスケートのようにアマチュアのスポーツ選手を育成するには大変な労力とお金がかかる。それを2人分。その苦労は計り知れないものがあっただろう。それでも娘たちのために母は努力してきたのだ。その中でも教育を忘れない母の姿勢から深い愛情が見て取れる。
真央が小学生のとき、日本人初のフィギュア五輪メダリスト伊藤みどり(40才)を育てた名コーチ、山田満知子さん(66才)の存在を知った。すぐに直接訪ね、頭を下げた。
「明日から一日も休まず練習させますから、真央を教えてください」
姉の影響で浅田真央がスケートを始めたのは5歳のころ。当時バレエを習わせていた母は、「バレエのためのスケート」としか考えていなかったようだ。だが、スケートが好きで熱中する浅田真央を見て考えを改める。ここからは、世界の舞台に浅田真央を立たせるために奮闘した母の姿を見てみたい。
早朝6時から深夜1時半まで、姉妹の練習は20時間近くに及ぶときもあった。
「匡子さんは朝から晩まで姉妹に付きっきりでした。コーチに積極的に質問をし、あいた時間にはコーチが“少し休ませたら”というまで練習を続けさせていました。真央ちゃんがお母さんを怖がって、お父さんばかりにくっつくようになった時期もあったほどでした」(匡子さんの知人)
母の熱心な姿にコーチも思わず「休ませたら?」と声をかけたほどだという。普通は逆のパターンが多いだろう。浅田真央はそんな母とコーチの元でメキメキと実力をつけていく。そんな浅田真央の様子を見ていて母もきっと喜んでいたに違いない。
好きなことをやるのはいい。だが絶対に最後までやること。それが母と娘たちの約束だった。スケートをやるなら最後まで―。母の考えていた浅田真央のゴールはこのときからオリンピックの舞台で金メダルを取ることだったのかもしれない。
母の死を速報で伝えるニュース番組
そんな母・匡子さんは2011年12月9日、闘病の末に肝硬変で亡くなった。とても大きな支えを突然失ってしまった浅田真央の心中は察するに余りある。
9日に浅田真央の母、匡子さんが肝硬変のため死去したことを受け、浅田の父敏治氏は10日、浅田のマネジメント会社を通じてコメントを発表した。
「この度は、皆様に大変ご心配をおかけしております。本来なら、故人が生前お世話になった皆様にも最後のお別れをさせていただかなければならないところ、誠に勝手ながら、生前からの故人の強い希望で、葬儀は家族だけで執り行わさせていただきます。舞も真央も、母のやすらかに眠っているような顔を見て、やっと苦しかった闘病生活が終わったことを自分たちなりに納得し、今は気丈にしています。今後とも、娘たちを温かく見守っていただけますようお願いいたします」
母・匡子さんの死を受けて翌日には父・敏治氏がコメントを発表した。
この中で、浅田真央・舞姉妹も気丈に振舞っていると伝えているがそのショックは計り知れないものがあっただろう。
カナダでのGPファイナル開幕直前、以前から体調不良だった母親の健康状態が悪化したとの日本からの連絡を受けて帰国、ファイナルを欠場した。その後母は肝硬変のため死去、48歳没。浅田はその死の際に間に合わなかった
当時、浅田真央はカナダで行われる予定のGPファイナルに向けて現地で練習を行っている最中だった。体調悪化の報を受けて急ぎ帰国したが、残念ながら間に合わなかった。そのことで浅田真央は自分をかなり責めている様子だったという。
浅田真央選手の母の死を受けて、関係者も追悼のコメントを寄せている。いくつか紹介しよう。
伊東委員長は「私も(浅田の)お母さんと親しくさせていただいていたので、言葉にならない。お母さんはずっと真央と二人三脚でやってきたのだから、真央がスケートで頑張ることが一番。早く立ち直ってほしい」と沈痛な面持ちで語った。
▽伊東秀仁・日本スケート連盟フィギュア委員長の話
非常に残念。今大会は残された選手で頑張る。連盟としては力になれるところで精いっぱいバックアップしていきたい。(世界選手権代表選考会の全日本選手権を欠場した場合については)今は何も言えない。
海外の選手からも浅田を気遣うコメント。トゥクタミシェワは「とても残念に思う。でも、真央はより強く復活することを願っています」。長年試合で顔を合わせているコストナーは、日本メディアから初めて話を聞かされて絶句。大粒の涙を流し、「言葉にできない。ごめんなさい」と立ち去った。
当時、浅田真央と競っていた海外の選手たちからもコメントが寄せられた。思わず涙を流す選手の姿もあったという。
休養を発表し、一時はそのまま引退か!?とも囁かれた浅田真央。しかし浅田真央は再びリンクに戻ってきた。2015年シーズン、女子1位という最高のスタートを切ったのだ。それはきっと、母との約束「最後までやり遂げる」の言葉が胸にあったからこそ。
浅田真央の活躍を、ファンも、そして天国の母も願っている。頑張れ!
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