木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
小田和正さんは、オフコースとして芸能活動を開始しています。オフコースの始まりは、小田和正さんが神奈川県横浜市聖光学院高校に在学中に、同じ学校に通う鈴木康博さん、地主道夫さんらと結成したフォークグループです。
その後、小田和正さんは東北大学に進学しましたが、東京と仙台を往復しながら音楽活動を続け、1970年にシングル「群衆の中で」でデビューしました。
小田和正さんは、1986年に始めてソロシングル「1985」を発表。その後、初のソロアルバム「K.ODA」を発表し、1989年のオフコースが解散した後、本格的にソロ活動を始めました。
その後、1991年にリリースした「ラブ・ストーリーは突然に」はドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌としても注目されてミリオンセラーに。ヒットメーカーとしての道を歩み始めました。
「ラブ・ストーリーは突然に」の発表以降も多くのヒット曲をリリースした小田和正さんですが、現在は、音楽プロデューサーとしても活動しています。
ソロ活動をしていく中で、他のアーティストとの交流も多くなったことで、ソングライターとして、鈴木雅之さん、中村雅俊さん、島倉千代子さん、松たか子さんなどの曲をプロデュースしてきました。
また、チャリティーライブなどの音楽イベントにも積極的に出演してきました。
小田和正さんは、1982年に新井恵子さんという女性と結婚しています。新井恵子さんは、芸能関係の方ではなく、一般の方で、小田和正さんとは中学時代からの幼馴染みなのだそうです。
新井恵子さんは、小田和正さんがオフコースとして活動している時期には、時々事務所に来て手伝いをいていたということです。
小田和正さんと、新井恵子さんの交際がはじまったきっかけは、新井恵子さんがオフコースのファンクラブを作ってくれたことでした。新井恵子さんが、オフコースを一生懸命に応援してくれる姿に小田和正さんが惹かれたそうです。
1989年に解散したオフコースは、今となっては有名なバンドとして語り継がれていますが、活動当時は売れない時期もあり苦労も多かったようです。そんなとき、雑用を買って出てくれていたのが新井恵子さんだといわれています。
1982年から現在まで結婚生活が続いている小田和正さんですが、子供はいないということです。
子供がいない理由としては、以前、小田和正さんが「子供の声が苦手」だと話していたことがあるためだといわれています。新井恵子さんは小田和正さんに尽くす女性のようなので、子供についても小田和正さんの意見を尊重してくれたのかもしれません。
ただ、本当の理由については不明ですが、夫婦間で納得していることなのではないでしょうか。
小田和正さんと新井恵子さんは、離婚したという噂もありました。噂の出どころは、小田和正さんのお兄さんです。理由は、小田和正さんのお兄さんは、薬局の跡取り息子ですが、結婚と離婚を繰り返しているという情報があり、それが、小田和正さんと混同してしまったからのようです。
そのため、小田和正さんは、今でも離婚はしていない可能性が高いでしょう。
テレビではあまり家庭の話はしない小田和正さんですが、多くの楽曲の中で1曲だけ、奥さんにあてて書いた楽曲があるといいます。それはどんな曲なのでしょうか?ご紹介していきます。
「I LOVE YOU」は、1981年6月21日に発売されたオフコースの21枚目のシングルです。
歌詞の中に"早く9月になれば"というフレーズがあるのですが、小田和正さんと奥さんの新井恵子さんは、翌年1982年9月に結婚されています。この頃から、結婚に向けて進んでいたのかもしれませんね。
小田和正さんの奥さんである新井恵子さんは、小田和正さんが大学当時にオフコースとして活動をはじめたときからオフコースを支えてきました。
新井恵子さんが事務所の手伝いをしたのは、新井恵子さんの友人がファンクラブの会報を担当したことがきっかけですが、その頃から全ての楽曲を見守ってきた新井恵子さん。「I LOVE YOU」以外の曲もそれぞれに思い入れがあるのではないでしょうか。
小田和正さんは過去に病気と噂されたことがありました。その背景には何があったのでしょう?振り返っていきます。
小田和正さんは、毎年、TBS系でクリスマス限定で音楽番組「クリスクスの約束」を放送していました。しかし、2018年の冬に、17年間続けていたこの番組を突然中止にしたことから、病気ではないか?という心配の声があがりました。
そのため、小田和正さんはガンで体調不良のために中止になったという噂が流れました。
小田和正さんも力を入れていた「クリスマスの約束」が、突然中止になった理由としては、音楽には妥協できない小田和正さんと番組スタッフとの間に揉め事があったからともいわれています。
ただ、こちらについても真相は分かっておらず、"小田和正病気説"が一人歩きしてしまったようです。
小田和正さんの父親は、2008年5月26日に舌がんのために94歳で亡くなっています。歌手としての小田和正さんを応援し続けた父親の死は、ファンの間でも噂になり、父親がガンであったために小田和正さんもガンなのでは?という噂につながったようです。
小田和正さんは、1998年7月22日午後9時10分ごろ、栃木県都賀町の東北自動車道下り線の栃木-鹿沼インター間において、愛車のトヨタ「セルシオ」を運転していたところ、雨のためにスリップ事故をしてしまったことがあります。
小田和正さんが運転する車は、真ん中を走行していたにもかかわらず、スリップのために道路左側のガードロープに衝突したということです。
車は、右前部と右後部が大幅に破損し、小田和正さんは後部座席へと飛び、右肩がはれ上がり、鎖骨と鋤骨が3本折れて全治一ヶ月の重症を負いました。
その後、怪我から回復した小田和正さんは、以前にも増してファンを大切にするようになったそうです。
小田和正さんは、どんな家に生まれてどんな学校に進んだなのでしょうか?小田和正さんの学歴や実家についてみていきましょう。
小田和正さんは中学、高校一貫教育の聖光学院に進学し、大学は地元の東北大学に進み、建築学の勉強を始めました。
小田和正さんは、東北大学を卒業した後、1971年に早稲田大学大学院に進学し、建築の勉強を続けながら、音楽活動もしていたといいます。
そうする中で、建築よりも音楽への思いが強くなったため、1976年に大学院修了時に100%音楽の道に進むことを決めました。
小田和正さんは、薬局の次男として生まれました。その薬局は、長男である小田和正さんのお兄さんが継ぎましたが、父親は小田和正さんには医者になってほしいと願っていたといいます。
そんな父親の願いに背き、建築を学ぶために大学に進んだことで、父親はとても落胆していたといいます。
歌唱力が素晴らしいといわれている小田和正さん。そんな小田和正さんの名曲で、ライブで人気の定番曲をご紹介します。
小田和正さんの「Yes‐No」は、1980年6月21日にリリースされたオフコース19枚目のシングルです。
この曲の特徴は、「抱きしめよう」や「君を抱いていいの」という歌詞で、当時の曲の中では一線を越えていた歌詞といれていています。
小田和正さんといえば、「ラブ・ストーリーは突然に」といわれているくらいライブでも人気の曲です。
この曲は、「Yes-No」に似た切ない感じの曲が欲しい、というリクエストがあったために作られた曲ですが、ソロとしての小田和正さんを有名にした曲でもあり、ファンにとっても思い入れが強い曲のようです。
「言葉にできない」は、オフコース時代の曲で、1982年2月1日にリリースされた23枚目のシングル曲です。
「言葉にできない」は、「Off course Concert 1982 “over”」の最終公演である日本武道館と、1989年2月26日に行われた東京ドーム公演“The Night with Us”で、小田和正さんが涙で声が出なくて歌えなくなったこともあるほど、小田和正さんとファンにとっても大切な曲となっています。
現在73歳になった小田和正さん。それでもステージを駆け回る姿は健在で、多くのファンの心を掴んでいます。
小田和正さんは、これからどんなパフォーマンスを見せてくれるのでしようか?今後も小田和正さんの活躍に期待です。
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