木村良平さんの結婚相手がバラされた事件の真相は?子供がいるのかも解説
2023/12/28
大今里
伝説のキックボクサーとして、1960年代のヒーローとも呼ばれた沢村忠さん。そんな沢村忠さんは、今現在何をしているのかと気になっている人も多いでしょう。
かつてはキックの鬼とも呼ばれた沢村忠さんなので、今もキックボクシングを楽しんでいるのか、またはもう関わらずに過ごしているのか気になるものです。
まずは、そんな沢村忠さんの現在の様子について注目をしていきましょう。
実は、現在沢村忠さんは自動車修理販売業を営んでいるようです。この情報に関しては、1999年に放送されたバラエティ番組にて、沢村忠さんの特集が組まれた際に明かされていたことでした。
また、この番組で明かされたのは自動車の修理販売業を営んでいるというだけでなく、近所の子どもたちに空手を教えているということも明かされていました。指導員として空手を子どもたちに教えているようで、自分の知識や経験を引退後も活かしていたようです。
ただ、この放送は1999年に放送されていたものなので、2020年現在も自動車の修理販売業、そして空手の指導員を務めているかはわかりません。現在の年齢が2020年現在だと77歳なので、今は別のことをしながら過ごしている可能性もあります。
自動車の修理販売業や空手の指導員だけでなく、沢村忠さんはパチンコ台販売会社の取締役も兼任していたそうです。
パチコン代販売会社はセイブシステムリンクという会社のようで、公式サイトを見てみると、取締役の名前も変わっているため、現在は取締役を務めていない可能性もあります。
実は、沢村忠さんには死亡説が噂されていたこともありました。死亡説が囁かれるのは著名人にはよくあることであり、沢村忠さんの引退後の行方がわからないということもあり、死亡したのではないかと雑誌などでも取り上げられ、噂されることになったそうです。
また、死亡説だけでなく、アルコール依存症で体を壊しているという噂も流れています。このアルコール依存症の噂に関しても、沢村忠さん自身、体とアルコールの相性は悪いようで、アルコール依存症になることはない、と否定をしています。
伝説のキックボクサー、キックの鬼として恐れられた沢村忠さんですが、当時は八百長疑惑なども噂された人物でした。
当然のことながら、実際に沢村忠さんの実力を目にした人からしてみれば、八百長なんてないという意見も多かったようです。しかし、あまりにも強い成績を残すあまり「八百長をしているのではないか」と噂されてしまうことになりました。
では、実際沢村忠さんは八百長をしていたのか、また最終成績や藤原敏男さんとの強さの比較について注目をしていきましょう。
沢村忠さんの八百長試合が最も疑われてしまったのは、タイ人との対戦をした時でした。無名のタイ人と、週に1度の試合を重ねており、その度に勝利する沢村忠さんに対して、世間は八百長をしているのではないかという疑惑を持ったのです。
しかし、当時のキックボクシング人口は今より多くありませんでした。また、タイ人の強さも未知数であり、実際に沢村忠さんが対戦した相手は、チャンピオン級の強さを持つ沢村忠さんにとってはかなりの格下であるランク外の選手だったのです。
人口の少なさ、そしてタイ人の強さが周知されていない、システムの土台が作られていなかった当時は、どうしても強さが規格外に違う選手同士がマッチングしてしまう仕組みになっていたのです。そのため、最初から勝敗がわかっているような試合でもやらなければならない状況だったのです。
伝説のキックボクサーとして今もその名を馳せているというのも、沢村忠さんの最終成績があまりにも素晴らしいということが要因の一つとしてあります。
その最終成績というのが『241試合232勝5敗4分』という、あまりにも勝ちすぎているとも言えるものなのです。ほとんどの試合で勝利を収めており、勝率はおよそ96%に及びます。また、232勝のうち228勝はKO勝ちをしているため、それを知れば伝説のキックボクサーと呼ばれるのも頷けます。
伝説のキックボクサーと言えば、沢村忠さんの他にもうひとり、藤原敏男さんという選手がいます。藤原敏男さんもかなり強い実力の持ち主であり、圧倒的な強さを持っていたと言われていました。
しかし、沢村忠さんと藤原敏男さんは試合をしたことはありません。年代が異なることにより、悲しくも二人が試合でマッチングすることはなかったのです。
そこで気になるのが、沢村忠さんと藤原敏男さんが試合をしたらどちらが強いのかということです。成績などから多く予想されているのが、藤原敏男さんのほうが強いのではないかと考えている人が多いようですが、中には沢村忠さんのほうが軍配が挙がると考えている人も少なくないようです。
次に、沢村忠さんが残してきた数々の伝説について注目をしていきましょう。沢村忠さんが伝説のキックボクサーだと呼ばれているのも、ただ最終成績がすごかったというだけではありません。
今までに多くの伝説を残しており、そのインパクトが強く、多くのファンの記憶に刻まれたからこそ伝説のキックボクサーという呼び名がついていたのです。
そんな沢村忠さんにまつわる数々の伝説をいくつかピックアップしてみたので、気になる人は早速ご覧ください。
キックボクシング引退後は、子どもたちに空手を教えているという沢村忠さん。そんな沢村忠さんも当然空手をしており、大学時代には空手部に所属していたそうです。
そして大学3年時には見事全日本チャンピオンにも輝いており、空手界の中ではかなりのツワモノとしてその名が知られることとなりました。また、子どもの頃からストリートファイトでは一度も負けてことがないということも、沢村忠さん自身が過去に明かしています。
全日本チャンピオンになるまで、沢村忠さんは子どもの頃からずっと無敗だったのです。沢村忠さんが伝説だと言われる理由も、無敗の空手選手だったということを考えれば当然だと言えるでしょう。
無敗の空手王だった沢村忠さんは、空手界で今後は活躍をしていくのではないかと考えられていました。そんな沢村忠さんの前に現れたのが、野口修さんという方です。野口修さんは日本キックボクシング会の創始者であり、ボクシング界を盛り上げた人物でもあります。
空手の腕前を見た野口修さんは、沢村忠さんをキックボクシングの世界に招待をしたのです。当時、沢村忠さんはそんな誘いに対してあまり気乗りしていない状態だったようですが、結果的にデビュー戦は圧勝という形で終わり、キックボクシング界に沢村忠さんの名前が轟くことになったのです。
圧倒的な強さを持つ沢村忠さんですが、実は病院送りにされた経験があります。それも、頭蓋骨陥没、7本の歯が折れ、さらには肋骨が4本も折れていたという、かなり酷い状態での病院送りでした。
沢村忠さんが病院送りにされてしまったのは、デビュー戦の次の試合です。沢村忠さん自身も勝てると考えていた試合でしたが、結果は先程触れたような大怪我をする有様であり、すぐに病院に運ばれることとなったのです。
今まで華々しく勝利を掴んできた沢村忠さんの圧倒的な敗北に、キックボクシングに誘った野口修さんは、これを機に沢村忠さんはやめてしまうのではないかと考えたそうです。しかし、そんな予想とは裏腹に、敗北が沢村忠さんの闘心に火をつけたのです。
病院を無事に退院した沢村忠さんは、八ヶ岳へと足を運びました。その理由というのが修行です。誰もいない場所で、まずは精神を鍛えようとしたそうです。孤独や誰もいないという厳しい環境の中で、約2週間の間、八ヶ岳の山中にこもり、ひたすら精神を鍛えたのです。
その後、野口修さんと再開した沢村忠さんは、実力を伸ばすためにトレーニングを開始します。厳しいトレーニングを重ねていき、圧倒的敗北を味わった試合の1年後、再びリングに上がり、あの時の選手と試合をすることになりました。
結果としては、沢村忠さんが勝利を収めました。互角の戦いだったものの、精神力、肉体、実力を磨き、さらには生まれ持った圧倒的センスを持った沢村忠さんが、見事一年前のリベンジを果たしたのです。
沢村忠さんというと、必殺技の真空飛び膝蹴りが有名です。実は、もともと沢村忠さんは必殺技を研究していく中で、飛び蹴りを考えていたと言われています。
しかし、様々な経験や助言を聞いていくうちに、飛び蹴りもよりも飛び膝蹴りのほうが強く有効なのではないか、というアイディアをひらめき、実践するようになります。
切磋琢磨をしていく中で、的確に、そして真の必殺技となるように研究を重ねていき、沢村忠さんの代名詞とも言える真空飛び膝蹴りが誕生したのです。
現代でも人気のヒーローであるウルトラマンですが、実は沢村忠さんとウルトラマンは過去に戦ったことがあるってご存知ですか?平和を守るために戦うウルトラマンと、空手界最強、そしてキックボクシング界でも最強と謳われた沢村忠さんが戦ったらどっちが強いのか、非常に気になるものです。
当時、ウルトラマンは多くの影響を受けて放送をしていました。キックボクシングにも影響を受けていたウルトラマンは、第27話『この一発で地獄へ行け!』の放送時に、沢村忠さんを本人役で出演させることに決めます。
この27話の中では、当時のウルトラマン役を務めていた郷秀樹さんと実際に戦っています。試合結果は沢村忠さんの勝利に終わり、【あのウルトラマンを倒した沢村忠】として、世間に名を馳せることとなったのです。
沢村忠さんは、日本プロスポーツ大賞も受賞しています。日本プロスポーツ対称は1968年に開始された賞であり、スポーツ界において大きな影響をもたらした人物を表彰する名誉ある賞として知られています。
沢村忠さんは、そんな日本プロスポーツ大賞に1968年には殊勲賞を受賞、1973年には大賞を受賞しています。大賞受賞者に対しては、内閣総理大臣杯が授与されるものとなっており、当時から多くのスポーツ選手の憧れ的存在でした。
また、大賞を受賞した1973年には、大賞の有力候補ともなっていた王貞治さんの存在がありました。沢村忠さん自身、まさか自分が大賞を受賞するとは思っていなかったらしく、あの王貞治さんを抑えての受賞にはかなり驚いたことを明かしています。
沢村忠さんの実力は、文章で読むだけでも素晴らしいものだと感じられます。しかし、中には実際に沢村忠さんが試合をしている姿を見てみたいと感じている人も多いでしょう。
そこで、今回は3つの沢村忠さんの凄すぎる試合動画を紹介していきます。
沢村忠さんと言えば、余裕のKO勝ちを多くしていることでも有名です。
こちらの動画では、沢村忠さんのKOでの勝利を収めたシーンを見られるため、圧倒的な強さをその目で確かめてみたいという人にはかなりおすすめです。
こちらの動画では、沢村忠さんの実際の試合シーンを見られます。
必殺技である真空飛び膝蹴りはもちろんのこと、容赦ないパンチ攻撃の連鎖には圧倒されること間違いなしです。
最後に紹介をしていく動画なのが、梅木清光さんとの試合です。この動画は久々に日本人選手との試合ということもあり、多くの注目を浴びたものとなりました。
この試合の魅力的なポイントというのが、沢村忠さんの圧倒的な強さにひるむことなく、梅木清光さんが戦いに挑んでいるというところです。そのため、沢村忠さんも良い動きをしており、非常に素晴らしい試合となりました。
最後に、沢村忠さんのプロフィールや経歴などについても注目をしていきましょう。沢村忠さんには様々な伝説や功績がありますが、どんな人物なのかについて気になる人も多いはずです。
また、引退の理由や家族のこと、さらにポケットモンスターにまつわる噂についてもまとめてみたので、是非ご覧ください。
沢村忠さんは、幼少期から空手を習っていました。その強さは大学の空手部に入部し、全日本チャンピオンに輝いたことにより、日本中に知れ渡ることとなっています。その後、キックボクシング協会の創始者である野口修さんにスカウトされ、キックボクシングの道を歩むことになります。
様々な伝説を残していますが、特に沢村忠さんの必殺技である真空飛び膝蹴りはキックボクシング界に衝撃を走らせた技の一つとなっていて、柔軟な発想と真空飛び膝蹴りを完成させた素晴らしいセンスには、多くのファンが魅了されることとなりました。
沢村忠さんには一人娘がいます。沢村忠さんは結婚歴はないものの、銀座の有名ホステスとして名を馳せていた大門節子さんとの間に、一人娘をもうけています。大門節子さんとは婚約はしていたものの、実際に籍をいれることはなく、現在に至るまで沢村忠さんは独身を貫いてきました。
そんな大門節子さんとの間に生まれた一人娘は、白羽玲子さんです。白羽玲子さんと言えば、元タレント、歌手として活躍をしていた人物であり、バラエティ番組『桜っ子クラブ』の看板娘でもありました。
現在は芸能活動を引退して一般人に戻っているようですが、あの沢村忠さんの一人娘ということで、当時は大きな注目を浴びていました。歌手としての代表曲には、人気ドラマ『特命係長只野仁』のエンディングテーマである『ラブレター』を手がけています。
もともと沢村忠さんは、27歳までキックボクサーとして戦うと決めていたそうです。しかし、当時のキックボクシングは注目されていたスポーツであり、沢村忠さんなしでは盛り上がらないものでもありました。そのため、沢村忠さんはキックボクシングをやめると言い出せなかったそうです。
体が疲れていてケガをしていても無理やり試合に出ていましたが、やがて肉体的にも精神的にも疲れてしまい、網膜剥離や脳波の乱れなどの症状が現れてきた結果、突然の失踪を遂げ、沢村忠さんは表舞台から姿を消してしまいました。
翌年には引退することを告げ、正式に世間へと引退発表を行いました。その後、沢村忠さんを失ったキックボクシング界の人気は徐々に衰えていくことになります。
世界的人気ゲームである『ポケットモンスター』の初代ポケモンには、サワムラーという足技が得意なポケモンがいます。実はこのサワムラーは、沢村忠さんをモデルにしたポケモンだってご存知でしたか?
実際にポケモン内でのサワムラーの説明文には『キックの鬼』という一文が添えられています。また、沢村忠さんの必殺技でもある『飛び膝蹴り』もサワムラーは覚えることが出来ます。
沢村忠さんのことを知らなかったという人でも、ポケモンファンならば、沢村忠さんを身近に感じられるようなポイントでしょう。
沢村忠さんは幼少期に祖父から空手を教わっていました。実はそんな祖父は、中国唐手の正師範を務めていたようで、そういった実力や知識、経験を孫である沢村忠さんに叩き込んでいたそうです。
沢村忠さんの祖父は、約15年間に渡って徹底的に沢村忠さんに空手を教えていきました。その結果、空手では無敗、さらには全日本チャンピオンに輝いていったのです。
沢村忠さんをモデルにした『キックの鬼』というのは、ボクシングファン、沢村忠さんのファンならば一度は耳にしたことがある作品でしょう。この作品があったからこそ、沢村忠さんは日本中からキックの鬼と呼ばれるようになりました。
キックの鬼は、あの『明日のジョー』を手がけた梶原一騎さんが原作を務めた漫画でしたが、人気を博した結果、アニメ化もしています。
スケジュールの結果、声優としてアニメに携わることは出来なかったそうですが、結果的に日本中に沢村忠さんの名前が知れ渡る大きなきっかけとなりました。
キックボクサーとして活躍をした沢村忠さんですが、実は俳優や歌手活動といった場面でも活躍をしていました。
キックボクサーとして活躍をする前のことであり、もともと中学3年生の頃に映画養成所で入学し、ドラマ出演も果たしています。また、大学時代には自ら脚本を書いており、その中の1本は実際に大映に採用されているのです。
また、キックボクサーとして活躍をしていた時にも映画やドラマにも出演をしています。
沢村忠さんの魅力をたっぷりとお伝えしてきました。数々の伝説、経歴、そして動画やプロフィールなどをチェックしていくと、沢村忠さんが今もなおキックボクシング界に名前を轟かせていることには納得せざるを得ません。
また、キックボクシングに興味がないという人でも、アニメのキックの鬼や、ポケモンのサワムラーのモデルだということを知れば、沢村忠さんの偉大さが身にしみて伝わってくることでしょう。
これからも、沢村忠さんの数々の伝説は色々な形で後世へと語り継がれていくことでしょう。
この記事に関する記事
Copyright© 運営事務局
【この記事は2020/04/13に更新されました】