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    えたひにんの意味は?えたひにんに多い苗字や地域をご紹介

    武士時代の階級概念によって分けられた士農工商の順位。その階級の下には「えたひにん」といった最下級身分が存在しました。牛馬の死体処理や下級警察的仕事を課せられていたえたひにん。現在にもその名残はあるのでしょうか。また、えたひにんが多い地域や苗字をご紹介します。

    【この記事は2019/11/28に更新されました。】

    えたひにんとは?

    学生時代の歴史の授業で、【えたひにん】という言葉を聞いた覚えがあるという人は多いでしょう。えたひにんというのは、漢字で書くと【穢多(えた)】【非人(ひにん)】と表します。

    漢字からわかる通りに、えたならば穢れ(けがれ)を意味する漢字が使われており、ひにんならば「人に非ず」とも取れるような漢字で表されており、あまり良い印象や意味を持つ言葉ではないというのは容易に想像が出来るでしょう。

    今ではえたひにんのような差別はあまりありませんが、地域によっては名残があるという噂もあります。今回はそんなえたひにんについて調べていくということで、まずはえたひにんの差別があった、武士時代の身分階級について触れていきましょう。

    武士時代の身分階級”士農工商”

    武士時代、特に江戸時代には身分がありました。時代劇などを見てみると、武士や商人、農家など、様々な身分があることに気付かされます。特に武士に関しては偉いとされており、身分の中では上の地位に位置していました。

    そんな江戸時代の身分を表す言葉として、士農工商(しのうこうしょう)という言葉があります。武士、農家、工業職人、商人、という順番で身分がわかれており、基本的に武士に対してどれほどの恩恵を与えられるかという基準で身分の位は決められていたと言われています。

    たとえば、農家や工業職人は武士を支えるためには必要不可欠の存在だと言えます。その後に商人の位があり、身分制度は保たれていました。しかし、実際は武士の下には商人がいて、その下に職人、農民だったとも言われています。

    ”士農工商”の下がえたひにん

    士農工商の順番で言えば、武士の下には農家があるはずでしたが、実際は武士の下には商人、その下に職人や農家がいたと言われています。当然ですが、掲げられていた士農工商制度とは違う扱いに対し、職人や農民からは非難の声が挙がっていたようです。

    そこで決められたのが、農民よりも下の身分です。その身分として定められたのが、えたひにんであり、士農工商の下の身分ということもあって、えたひにんを多くの差別を受けることとなりました。

    えたひにんとして扱われてしまったのが、基本的に大きな失敗をしてしまった人や、自分の仕事から逃げ出してしまった人です。たとえ商人として成功をしていたとしても、大きな失敗により負債を負ってしまい、それを処理しきれないと士農工商の下の身分であるえたひにんへと落とされてしまっていたのです。

    えたとは?

    士農工商の下の身分であるえたひにんですが、えたとひにんとではやや扱いや職業が異なりました。えたひにんはよく一括りで語られることが多いものですが、実際はえたのほうがひにんよりもやや上の身分であり、ひにんと比べると仕事も生活状況もマシだったと言われています。

    まずはそんなえたが、どんな扱いや職業を受けていたのか、そしてどんな生活を日々送っていたのかについて注目をしていきましょう。

    えたの職業

    えたの仕事は、穢多という漢字からみてわかるとおりに、基本的に汚れ仕事を専門としていました。病死、または捨てられた家畜たちを山奥や沼地にある自分たちの移住区に持ち帰り、死体を処理して暮らしていました。また、その時に出た死体の肉を食べていたと言われています。

    また、それだけでなく革製品を作るために必要な牛や馬の川を剥ぐ作業や加工など、体が汚れ、さらには体力や力も消耗する仕事はえたの仕事として割り当てられていました。そういった仕事内容を見てみると、えたを穢多と漢字で表すことには頷けるでしょう。

    他にもえたは、下級警察の仕事も請け負っていました。刑務所で番をする者や、実際に刑を執行して罪人を処罰する者など、こちらの仕事もやはり様々な意味で穢れを感じさせるものであり、えたがやるように命じられていました。

    生活状況は?

    生活状況はあまり良いものではありません。基本的に居住区は住むのに向かない、沼地や山奥など、士農工商の身分を持つ人達が住まないような場所に住むように指示されていました。

    また、食事に関しても仕事の内容でもある家畜の死体処理で出た肉を食べていたり、農民などが捨てたゴミを食べていたと言われています。当然ですが、住んでいるところも口にするものも不衛生なものばかりであり、体を壊してしまうえたは多くいたと考えられています。

    ただし、それでもこの後紹介をしていく、ひにんの生活状況よりかは遥かにマシだったと言われています。屋根をつけることは禁じられていましたが、小屋を作ることは許されており、家と呼べるようなものを手にすることは制限されていませんでした。

    ひにんとは?

    次に注目をしていくのが、ひにんです。ひにんは、非人と漢字で表すとわかるように、えたよりも酷い扱いを受けていた身分でした。人に非ず、という意味からはなんとなくイメージが出来ると思いますが、その扱いはまさに人として見てはもらえていないものであり、非道なものだったと言います。

    基本的に、えたもやらないような仕事を任されていたり、住居などの制度もかなり厳しく制限されていました。現代で言えばホームレスよりも下の扱い、身分だとイメージをしてみると、ひにんという身分の酷さは伝わってくるはずです。

    では、具体的にひにんはどのような職業について、どんな仕事をしていたのかについて注目をしていきましょう。また、そんな職業に就きつつ、どんな生活をしていたのか、先程紹介をしたえたと比較をしながら、是非注目をしてみてください。

    ひにんの職業

    ひにんの仕事は、基本的に人がやらないような仕事だと言われていました。自分たちよりも上の身分の者たちが、不要だと思ったものを処理するような仕事だと考えられています。たとえば、ゴミ処理を行うこともあれば、身分が上のものがいらないと判断した【人間】までも処理をしていたと言われています。

    特に人を処理するというのは、確かに道徳的に、倫理的に人がするようなことではありません。しかし、武士が最も上の地位であり、様々な思惑がうごめく江戸時代には、よく人を処理するということはあったと言われています。そんな時にひにんは役立ったということなのです。

    また、他にもえた同様に下級警察のような仕事も請け負っていました。刑務所の管理や罪人を処罰する係など、こちらも道徳的に、倫理的に人が請け負うことをためらうような仕事を代わりにやっていたと言われています。

    生活状況は?

    ひにんの生活状況ですが、ひにんは非人頭と呼ばれる団体が支配する小屋で暮らしていたと言われています。基本的にひにんは人扱いをされていないため、あくまで小屋で暮らしているのは好きなように支配されるためだったと考えられています。

    一見、小屋を与えられているひにんのほうがマシだと考えてしまうものですが、扱いは家畜同然だと考えてみるとわかりやすいでしょう。家畜同等だと考えられ、小屋に入れられ、好きな時に扱われると考えてみると、まだ自分たちの家を持てるえたのほうが何倍もマシだと思えるものです。

    また、ひにんの中には浮浪者のような存在もいました。どこかの団体に属すことなく、ただ浮浪しているだけなので、当然ですが家を持ちませんし仕事もありません。野垂れ死ぬこともあり、見つかると処罰の対象にもなってしまいます。捕まると団体に入れられますが、3回脱走を試みると死罪になりました。

    えたひにんが暮らしていた地域や出身の有名人、多い苗字は?

    えたひにんが暮らしていた地域というのは、ある程度絞られています。江戸時代ではすでに士農工商制度という、きっぱりと決まった身分制度が出来ていたため、人々を制限していくルールというものが作られていました。

    当然、えたひにんもその制度によって上手く分けられており、士農工商の身分を持つ者たちとは違った場所で暮らすことを余儀なくされていました。

    そのため、えたひにんが暮らしていた地域というのは限られているのです。現在は士農工商えたひにん制度や大きな身分制度、差別などはありませんが、それでも一部では部落差別といったような差別の名残があるとも言われています。そんな、えたひにんが暮らしていた地域について注目をしていきましょう。

    被差別地域・同和地区と呼ばれる地域

    えたひにんが暮らしていた地域は、被差別地域、同和地域と呼ばれています。部落とも呼ばれており、今はそういった大きな差別はありませんが、多少地域によっては部落差別の名残があると考えられています。

    被差別地域と呼ばれる理由は、その名の通り差別を被ったから被差別地域と呼ばれます。同和差別と呼ばれる理由に関しては、明治時代に身分制度が廃止された際、みんな平等であることを意味して被差別地域のことを、同和地域と言い換えるようになったからだと言われています。

    しかし、それでも簡単に差別意識が消えることはありませんでした。そのため、一部の人間は同和地域のことを部落地域と言い、被差別地域というイメージを払拭するのはかなり時間がかかったと言われています。

    西日本に多いとされている

    被差別地域、同和地域が多いと言われているのが西日本です。特に【福岡県】【広島県】【愛媛県】には被差別地域、同和地域が多いとされており、今でもその名残が根強く残っているとも噂されている地域でもあるようです。

    福岡県には約600地域にも登る被差別地域、同和地域があるとされており、その数は日本全国ではトップでもあります。重要な地域でもある太宰府の管理にえたひにんが必要だったという説や、革工業の起源でもあることからえたひにんが集中していると考えられているようです。

    また、日本国内で福岡県の次に多いとされる被差別地域、同和地域というのが広島県です。広島県には400を超える地域があるとされており、特に広範囲に渡って被差別地域、同和地域が広がっていると言われています。

    関東地方にも存在する

    部落というと京都のイメージや西日本に多いような気がしますが、東日本にも部落はもちろん存在していました。

    「東日本の被差別部落」という書籍に、東京都にあった被差別部落は248地区との記載があり、相当の数の被差別部落があったことがわかります。

    東京都だけでもこんな数の部落があったということは、京都府の部落はかなり多かったことが予測できます。

    被差別地域・同和地域が西日本に多い理由は京都が関係しているらしい

    日本全国には被差別地域、同和地域が散らばっていますが、特に西日本には多いとされています。その理由の一つとして考えられているのが京都の存在のようです。江戸時代の頃、京都は日本の中心と言われており、平安時代から続く都ということもあり、多くの貴族がいました。

    実際に京都には天皇が住んでおり、京都は日本の中でも特に神聖で清らかな場所というイメージが多くの人にあったようです。そういったイメージや貴族が多いということもあり、特に日本の中でも京都はよりいっそう身分や穢れに対する意識が強く、結果的に差別が生まれやすかったと言われています。

    そういった京都という神聖で清らかな地域を守るために、被差別地域を作り、差別をしっかりとして区別をすることで、京都のイメージを保っていたようです。他にも被差別地域が生まれた理由はあると言われていますが、京都という存在が大きく関係している可能性は十分に高いと言えるでしょう。

    被差別地域出身の有名人

    今ではあからさまなえたひにんのような身分階級差別、被差別地域、同和地域に対する差別というものはほとんどないと言われています。しかし、そんな中でも気になってしまうのが、被差別地域出身の有名人の存在です。

    今の時代では、芸能人というと華やかでキラキラとした世界を思い浮かべる人は多いでしょう。しかし、江戸時代などの昔の時代は、芸能というと身分が低い者がする職業だったと言われていたのです。

    そのため、芸能人には被差別地域出身の人が多いと一説には言われているようです。当然、今の時代はそういった身分階級などはないので、被差別地域、同和地域出身だからといって身分が低いということはありません。あくまで被差別地域とされていた地域の参考にチェックしてみてください。

    俳優 三國連太郎(群馬県太田市)

    昭和の映画スターとして人気を馳せていた俳優の三國連太郎さんは、実際に部落差別の問題と向き合っていた人物としても知られています。三國連太郎さんが生まれたのは、群馬県の太田市であり、三國連太郎さんの父親が実際に被差別地域の出身者だったと語っています。

    三國連太郎さんの父親は、被差別地域出身であり、電気職人として活躍をしていたそうです。そのため、部落差別に関しては三國連太郎さん自身も問題を目の当たりにすることが多く、定期的に部落差別に関する講演や書籍などを出版し、部落差別問題を世間に訴えかけていました。

    また、被差別地域に対する差別の問題には「戒名」と呼ばれるものがあります。これは、被差別地域に住む者に対して差別を意味する名前をつけるというものだと言われており、三國連太郎さん自身は戒名に対しては2013年に亡くなる最期の時まで、拒否の姿勢を貫いていました。

    加藤あい(愛知県あま市甚目寺)

    女優として活躍をしている加藤あいさんは、芸能人の中では特に有名な被差別地域、同和地域出身の芸能人です。加藤あいさんの出身地は愛知県あま市甚目寺という地域であり、日本国内の中でも特に被差別地域としては有名な場所でした。このことについて、加藤あいさんは公表していないようです。

    実際、加藤あいさんが部落差別のようなことを受けていたかどうかは定かではありませんが、昔から特に差別がひどかった被差別地域出身の芸能人ということもあり、一部の間では有名なことだったと言われています。

    現在どれほどの差別意識が残っているかはわかっていませんが、加藤あいさんは被差別地域を出て、芸能界に進出して活躍をしている日本を代表する女優であり、今に至るまで差別を受けているということはないと考えられます。

    萬田久子(大阪市大正区)

    日本を代表する女優であり、ミス・ユニバース出身の美貌を誇る萬田久子さんも、被差別地域出身の芸能人として知られています。萬田久子さんは、大阪市大正区生まれであり、大阪市の大正区と言えば、知る人ぞ知る、被差別地域、部落差別地域としては名を馳せていた場所でした。

    また、江戸時代に被差別地域に追いやられていた、えたの職業には肉の加工というものがあります。実は、萬田久子さんの実家は精肉店を営んでおり、えたひにんの職業と関係があるかは定かではありせんが、噂ではそういった身分の名残として精肉店を営んでいるのではないかと一部では噂されているそうです。

    萬田久子さんの出身地である大阪市の大正区ですが、実は現在も差別の問題は度々起こっていると言われています。大阪の中でも住んではいけない地域としても言われており、実際に治安が悪いとも言われている場所のようです。

    倖田來未(京都市伏見区)

    平成の歌姫の一人である歌手の倖田來未さんも、被差別地域出身の芸能人としては有名な人物です。倖田來未さんの出身地は京都市伏見区です。実際、京都市伏見区がどの程度の被差別地域だったかは記録が曖昧のようですが、被差別地域の中でよく歌われていた歌「竹田の子守唄」が生まれた場所だと言われています。

    特に被差別地域に関しては西日本の京都の意識が強かったと言われていて、現在もその名残は京都の至る地域に残っているようです。そのため、住んではいけない場所、近寄ってはいけない場所として地元では噂のように注意がされているようです。

    ただ、大阪市の大正区とは違い、京都の被差別地域と呼ばれる場所の治安が悪いということはほとんどないようです。完全に昔の名残や印象が残っているだけのようで、被差別地域として意識をしているのは昔の差別意識を知っている者だけに限られてきていると言われています。

    松嶋尚美

    お笑い芸人として活躍をしている松嶋尚美さんも、被差別地域出身の芸能人ではないかと噂が囁かれているようです。松嶋尚美さんの出身地が大阪府東大阪市です。大阪の中でも、東大阪市は被差別地域として知られており、松嶋尚美さんも部落差別を受けていたのではないかと一部では言われているようです。

    また、その信憑性を高める説というのが、松嶋尚美さんのいとこの存在があります。松嶋尚美さんのいとこは、現在東大阪市の議会委員として活動をしているようですが、その傍らで部落差別の開放を訴える活動もしていると言われています。

    実際、どのような経緯で部落差別の開放を訴える活動をしているかはわかっていませんが、出身地のこともあるため、自分自身が過去に部落差別を受けていたことが関係しているのではないかと考えられています。そこから、親戚にあたる松嶋尚美さんも同じような扱いを受けていたと噂されるようになったようです。

    えたひにんの苗字は?

    えたひにんを区別するための方法として、居住区や職業を制限するだけでなく、えたひにん専用の苗字を江戸時代ではつけていたと言われています。現在は苗字=身分を証明するものであるという考えはありませんが、そういった名残から苗字を改定する人もいるようです。

    では、えたひにんの苗字にはどんなものがあったのでしょうか。また、改定により親戚とは違う苗字を持っているという人もいるようです。

    そんな一部の苗字や改定について、少し触れていきましょう。

    職業にまつわる苗字をつけられていた

    えたひにんの苗字として江戸時代につけられていたのが、えたひにんの職業にまつわる苗字でした。えたひにんの職業について振り返ってみると、皮製品の製造があります。そういった職業を意味するために、【革】や【皮】といった漢字が含まれた苗字を付けられていたと言われています。

    今では革や皮というような苗字はほとんど見ませんが、それも明治時代に身分制度が廃止されたことをきっかけに、革や皮と同じ読み方である【川】や【河】というような苗字に変えたと考えられているようです。

    また、えたひにんが住んでいたとされる水辺や沼地などが由来となって、【水】や【沼】【島】などがつく名字もあったと言われています。

    苗字を改定することも

    えたひにんの職業に関する苗字を付けられて、差別の対象として見極めていたということもあり、明治時代に身分解放令が施行された以降も人々の差別に対する意識が簡単に変わるということはありませんでした。現代でも部落差別の名残は残っているほどなので、当時は劇的な変化があったとは考えにくいと言えます。

    そのため、えたひにんや被差別地域を思わせるような苗字をしていたという人は、苗字を改定して、別の苗字を新たに名付けていた人も多かったと言われています。苗字は身分の名残を証明するものという意識や印象がある限りは、その苗字で居続けるのは難しかったのは容易に想像が出来ます。

    今の時代では、被差別地域に対する露骨な差別をする地域は少なくなってきていますし、ほとんどの人は苗字による差別を行っていません。それも、そういった差別を受けていた人たちが改定という決断と行動をした結果や功績だと言っても過言ではないでしょう。

    祖父母と苗字が異なる場合も

    苗字によって過去の身分制度の名残を感じさせるということもあり、苗字を改定して意識を一変させようとした人は少なくなかったようです。しかし、そういった行動をしたということもあり、自分の祖父母とは苗字が異なるというケースも生まれてしまったと言われています。

    たとえ苗字を改定したとしても、一族全ての苗字が改定するというわけではありません。そのため、とある一家が部落差別を理由に苗字を改定したとしても、自分の親や親戚が自分たちの苗字を改定しない限りは、その一家だけに苗字の改定が行われることになります。

    当然ですが、苗字が変わる理由というのは様々な理由があり、一概に部落差別の名残とは言い切れません。たとえ祖父母や親戚と苗字が異なったからと言って、必ずしも部落差別の名残によって苗字を改定したとは言い切れないため、注意をしましょう。

    根拠はない

    えたひにんの身分制度によってつけられた苗字、改定したという話などは、根拠はありません。実際にえたひにんがあった江戸時代の人物が今も生きているわけではありませんし、明治や昭和初期に被差別地域に対する部落差別を目の当たりにしていた人も少なくなってきています。

    苗字に関する由来、さらには改定の理由というのは先にも述べた通りに様々なものがあると言われています。一概に部落差別が関係しているとは言い切れませんし、そういった印象だけを強く持つ意識こそが差別意識を生む要因となるため、注意をしましょう。

    差別という古い風習は時代と共になくしていこう

    今回はえたひにんに関すること、さらにはえたひにんが住んでいたとされる被差別地域、同和地域、部落差別について触れてきました。これらの問題は、現代ではあまり目の当たりにしないことですが、実際に現代でも一部の地域でその名残が残っていると言われています。

    しかし、今の時代は階級制度というものはありませんし、部落差別というような差別自体異質なものだとして扱われています。どうしても地域柄、昔の名残というものが残ってしまうことはありますが、それも時代と共に少しずつでもなくしていく意識が必要だと言えます。

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